豊穣の海 富山湾
新湊漁港のお魚はなぜおいしい
朝と昼に行われるセリ
新湊漁業の歴史

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1. 古来新湊は漁業の基地でした
 豊かな漁業資源にめぐまれた新湊では、古くから海にすなどりする人々が住み着き、集落を形成していたと伝えられています。
 砂州が発達し放生津潟という大きな潟を形成するこの地域に、いつ人々が住み着いたかは定かではありませんが、奈良時代には越中国司として赴任した大友家持の和歌に"奈呉の浦"として登場し、海部人として歌い込まれています。
2. 放生津と呼ばれていた時代
 鎌倉時代以後の中世には、政治の中心も律令時代に国府のあった隣接の伏木から放生津と呼ばれた新湊地域に移り、政治だけでなく物資の集散地、漁業集落として栄えていました。
 特に政治的には鎌倉幕府の北陸探題が放生津におかれ、鎌倉北条家の一族である名越時有が現在の放生津小学校の地に館を築いています。
3. 漁業と海運で栄えた近世
 近世に入って、広大な放生津周潟周辺の開拓により農村集落が数多く出現するとともに、放生津の港は、米穀などの物資の集散地として、また、徳川藩政時代には北前船の寄港地となり、海運の町として大きく前進しました。
 漁業では、前田藩より富山湾の一元的な漁業権を与えられ、藩肝いりの魚問屋が制度化し、新湊の地浦魚を高岡や金沢に出荷していました。
 藩政時代には、新湊浜の漁業はわら台網と呼ばれた定置網の発達や、漁法の技術開発をとおして大きく生産量をのばし、海運と漁業の町として1500軒を数える大集落となりました。
 台網とよばれる初期の定置網は、今のそれからするならずっと小規模なものですが、藩政時代後期の天保年間には180統〜200統にのぼったとの記録があります。
 しかし、金沢登り商人、高岡場所行き商人が指定され、放生津六軒問屋などの特権的な制度により過酷な漁民支配が行われた結果、漁民一揆などが発生し、その顛末は現在も放生津義人伝として語られ、犠牲者が漁民義民塚にまつられています。
 この事件以後前田藩による浦支配も変化し、六軒問屋制なども廃止となり、かわりに放生津魚場がもうけられ、魚吟味役が置かれて、金沢登りの政策は続けられました。
 さらに享保年間には魚場仕法12ヶ条がさだめられ、放生津魚場は前田藩の官許の統制市場になり、売上高が年額1万貫をこえる巨大な魚介類集積場になりました。
 この魚取引の口銭高から積み立てた、繰り越し除銭とよばれた不漁や海難事故のための補償金の残高も、8000貫以上保有するという偉容になっていました。
 このように恵まれた漁業資源を背景にした新湊漁業は、すでに藩政時代に、一大漁業基地として、大官許の機構と生産組織を持った全国にも希な巨大な生産流通組織を作り上げていたのです。
4. 近代漁業の基地へ
1.大敷網の発達
 明治から大正時代にかけて、新湊や富山湾の漁業は急速に近代化されました。とくに定置網漁法は、網型の改良や、ワラ網から麻の細目の糸網への転換によって大型化した結果、より深いところでも操業できるようになり、漁獲も飛躍的に増大しました。
 波浪による定置網の損壊・流失や不漁の年なども有ったにせよ、この期間は毎年のように氷見漁港とともにブリの大漁が続き、ブリ景気と言われました。
 明治35年には放生津漁業組合が設立され、魚市場の機構も確立され、近代漁業基地としての新湊漁港がかたちづくられました。

資料 明治末のブリ漁
明治38年
ブリ5,999本フクラギ18,567尾
金額18,800円
39年
ブリ20,000本フクラギ6,666尾
金額33,000円
40年
ブリ3,000本フクラギ9,375尾
金額7,500円
41年
ブリ105,000本フクラギ65,000尾
金額130,000円

 この41年の大漁は新湊の3統の定置網が在来型から新網の麻苧網に切り替えられたことによる。


2.北洋漁業・出稼ぎ漁業
 北前船を主体とした海運業の衰退とともに、北洋のタラ・サケ・マスなどを中心とした北洋(オホーツク海やカムチャッカ沿岸)漁業にのりだす企業家も多く出て、明治37年には新湊遠洋漁業生産組合が設立され、新湊を基地とした遠洋漁業も盛んに行われました。
 また、北海道におけるニシン漁やイカ漁も、新湊の漁業者たちが函館や北海道の日本海沿岸を中心に展開し、盛んに活躍しました。

3.第2次大戦後の新湊漁業
 昭和24年、漁業組合法に基づき、新湊漁業協同組合と新湊地区漁業協同組合がそれぞれつくられました。同一地区2組合の不都合もあり、昭和27年には新湊地区漁業協同組合が新湊漁業協同組合に合併する形で、現在の新湊漁業協同組合が組織されました。


 戦後、日本の漁業は沿岸から沖合へ、そして遠洋へと視点を変えてきました。沿岸の漁業、特に定置網漁業などは待ちの漁法として斜陽産業のようにいわれ、沖合・遠洋の漁業がもてはやされる時期がありました。
 しかし、世界的な経済水域の設定や資源確保の動きなどによって、遠洋漁業が急速な環境悪化と衰退をしていくなかで、今日では近海・沿岸漁業が再び見直され、期待される時代となっています。
 新湊では遠洋漁業全盛の時代でも、その豊かな自然環境に助けられ、定置網漁法の改良や各種の沿岸・近海漁業の漁法改良で、漁業を守り続けてきました。
 これからも、漁業資源保全のための対策を重ねつつ、漁業を守り、育てていく姿勢を貫いていきます。